年も明け、気づけばもう如月。
 暦の上では明日から春だというが、いまだ表は小雪が舞っていて。
 せめて固く蕾を閉ざしたままの梅や水仙でも花開けば納得のしようものを。
 そんな気分のまま、ひんやりとした畳の上に頬を預け、外の気配に耳をすます。

 今宵は節分。
 古くは宮中行事の追儺の儀まで遡る、鬼払いの日。
 人々は戸口に柊と鰯の厄除けを飾り、鬼打豆をまく。
 またこの鬼打豆を年の数だけ食べ、一年間の健康と長寿とを祈るという。
 春待ちの夜。


春待ち

 子供に鬼役を命じられた父親が必死で逃げ回っているであろう時間帯。
 京の彼方此方であがる鬼払いの声が、屯所の奥にも微かに届く。
 さきの幸せを祈って懸命に豆をまく子供の笑い声。

「…だからってさぁ。俺達が豆まいてもしょうがないんじゃん?」
 とうの昔に空になった徳利のなかを未練がましく覗き込みながら、平助がつまみ代わりの沢庵に手を伸ばした。
「まあまあ。たとえ新撰組が鬼の巣窟だとしても『福はうち』ぐらい言う権利はあるでしょ」
 左之助が持ち込んだ酒はそれなりに良いものだったらしく、宵の口にして気分はほろ酔い。
 ごろりと畳の上に横になって、新八は平助の顔を見上げた。
「いいじゃないの、総司が土方さんトコの仔犬ちゃん巻き込んで豆まくぐらい。だれが困るわけでなし」
 実際は、いつものごとくキレた鬼副長の剣幕を目にして『仔犬』の兄が胃を痛めていたりするのだが、それは三人の知ったところではない。
 たとえ知っていても、それこそいつものことと笑い飛ばすのがオチだろう。
「それよりも、よぉ。もうつまみないのか新八?」
 ひとり酒瓶を抱えて飲んでいた左之助が、部屋の主に催促するように皿を叩く。
「あ、悪い。今俺が食ったの最後の一切れ」
「ありゃ。大根一本分くらいもらってきたのに、もうなくなったか。…左之がいるとなくなるの早いねぇ」
 なにかあったかね…と部屋の彼方此方を引っ掻き回して、新八は程無く小さな和紙のねじり包みを取り出した。
「…大豆?」
「あぁ、夕飯んときのヤツか」
 今日の賄い当番の一人がマメな男で、「節分だから」と夕食時、隊士一人ひとりに年の数だけ炒り大豆を配ったのだ。
 ずいぶん手間をかけたものだと呆れた者も多かったが、まぁせっかくだから…と全員が包みを受け取っていた。
「それなら俺もまだ持ってるよ」
 平助が懐から同じような包みを取り出す。
「…お前ら、ずいぶん物持ちいいなぁ。俺なんかその場で食っちまったぜ」
「そりゃ左之にとっては大豆の一握りや二握り、モノの数じゃないだろうけどさ」
「ま、なにもないよりはマシでしょ。はい、つまみ追加ってコトで」
 ざらりと皿に二十数粒の大豆があけられる。ほんのりと香ばしい匂いが部屋に広まった。
「ひのふの…やっぱ、新八っつぁんのが数が多いなぁ」
 ついつい豆の数を気にしながら、平助も大豆を皿にあける。
 二人分あわせても一握りなさそうな大豆は、一瞬で左之助の腹に収まってしまいそうな量だった。
「…少ねぇな」
「贅沢言わない。大陸にいるっていう仙人なら大豆だけで腹一杯になれるんだろうけど、俺らだったらこれぐらいが関の山でしょう」
 そう言って新八は、豆を一粒つまむと口に放り込んだ。
 その横で平助が口に運ぶでもなく選り分けるように豆をいじっている。
 その表情があまりに真剣なので、思わず新八と左之助は顔を見合わせた。
「…なに、平助?そんなに大豆が気になるわけ?」
「ん…あぁ、うん」
 行灯の炎が揺れて、一瞬影が濃くなる。
「こっちが俺の豆で、こっちが新八っつぁんのね。…けっこう差ぁあるなぁ、と思ってさ」
 いっているのは大豆の数、ひいては年の数だということに気がつくのに数瞬の間があった。
「そうか?気にするほどのもんでもないと思うけどな。なぁ新八」
「そだねぇ。ちょっとばかり俺が年食ってるだけでしょ。なんの問題もないって」
「…そうかなぁ。本当にない?ない?」
 酔いのせいか、若者が抱きがちな年長者へのコンプレックスに身をまかせ平助がなおも言い募る。
 小雪の舞う空は重い雲が月も星も覆い隠して、光を一つも与えてくれない。
 わずかに俯いた顔は行灯の影になって、表情がわかりにくい。
「左之と新八っつぁんは一つ違いだからいーけど。俺、四つも五つも離れてんだよ。なんか一つぐらいあるだろ?」
「だからないっつってんだろーが!」
「…あぁ、そうだな」
 ピッと新八の指ではじかれた大豆が、平助の額にヒットして転がる。
 顔をあげたところに飛び込んできたのは、冗談とも本気ともつかない、ただ強い目の光。
「違いなんて、その大豆の数の差だけ俺のがお前より先に死ぬ権利があるってことぐらいかな」
 不意に強い風が吹いて、わずかに開いた障子窓の隙間から粉雪が舞い込んだ。
 新たな酸素を得て、火鉢の炭が赤々と燃え上がる。
 だが一瞬冷やりとしたのは。ほのかな酔いが醒めたのは。
 きっと風のせいではない。
「は…はは、やだなぁ新八っつぁん。そーいう冗談笑えないよ」
「冗談じゃないでしょ。それが自然の摂理ってモノよ、平助クン。
 先に生まれたものは先に死ぬの。近頃狂いがちだけど、本来そうゆうモノだろ。
 お前らは俺の葬式で、弔辞のかわりに漫才しなきゃならない義務があるんだよ。
 …それが俺と平助の違い」
 よいしょ、と身をおこして座布団の上に座りなおすと、新八は皿の上の大豆に手を伸ばした。
「やっぱりこの大豆、つまみにするのやめよう。せっかく賄い当番が準備してくれたモノなんだし、伝統は大事にしないと。」
「そ、そうだな。この豆は新八と平助が食うべきだな。…ほら平助」
 平助の手に、年の数だけ大豆が乗せられる。
「せっかくだから、数えながら食べようか。…はい、ひとーつ」
「「ひとーつ」」
 新八の声に二人の声が唱和する。
 一つ減り二つ減り、平助の手の中から大豆がなくなっても、まだ新八の大豆は残っていた。
 一年の健康と長寿とを祈る鬼打豆。
 念入りに炒られた豆は香ばしく、少し固い。
「…新八っつぁん」
「うん?」
「もし新八っつぁんと俺と、本当に豆の数ぐらいの差しかないんなら。
 …それぐらいなら、許容してもいいかなぁ」
「いいんじゃない?立派に俺の葬式あげてちょーだいよ」
「…100年後くらいにね」
「そうと決まったら酒だあぁぁ!」
 どこからともなく新たな酒を持ち出して、威勢良く左之助が雄たけびをあげた。
 確かに酒は百薬の長っていうけどさ、と苦笑しかけた新八は、左之助の手に握られた酒瓶を見て目を丸くする。
「って、それ!俺が隠しといた取って置きのヤツじゃんか!」
「はっはっは。まだまだ隠しどころが甘いぜ、新八」
「あ〜、左之にだけは言われたくないセリフだったな…」
 ふっと誰ともなしに笑い声をあげる。
 なんとなく止まらなくなって、腹の底から笑い続けた。
 外はいまだ凍てつく冬の寒さ。
 けれど、この部屋の中だけは確かに春が来るのだと感じていた立春の前の日。


***


「あーんなコト言っててもさ」
 外の小雪はやむ気配はなく。
 火鉢の炭はとうに消え果ててしまって、部屋の中とも思えぬほど気温は下がってしまっている。
 たった一人の体温では、この冷えきった部屋は温められない。
 遠くで豆まく子供の笑い声。
「誰も年長者の言うことなんか、聞きゃしないんだから…」
 部屋に散らばるのは、三人分の鬼打豆。
 しかしあの日から幾分数が増えたのは自分のみだと、彼だけが知っていた。
 待てども待てども、春はもう来ない。